
いちまるグループ150年の歩み
「一切妥協のない仕事でお役に立ちたい」
150年間、その一点だけは守り抜いてきました。
これから先も、私たち自身が納得できる品質を、とことん追求します。
焼津城之腰に於いて
廻船魚問屋業を創業
「さかなのまち焼津」として発展してきた焼津港と共に歩む「いちまるグループ」。実は、江戸時代から焼津市(旧城之腰村)で魚仲問屋と鰹節加上を営んでいました。松村家6代目の長兵衛氏と7代目の定吉氏が活躍していた明治初年頃には複数の地元カツオ漁船を得意船として扱い、買付や魚商人と仲買人の取引方法の整備を行うなど、現在のいちまるグループの礎となる魚問屋を始めました。そうした所以から、株式会社いちまるの創業を明治初年(1868年)と定めました。

沿岸から沖合へ
幕藩体制の崩壊により漁場の制約がなくなり、焼津の漁師たちは沖合へ進出し、大型漁船の建造も進みました。明治期には、多人数で出漁するカツオ一本釣りが盛んになり、漁船の大型化や餌の確保で地域間の競合も発生しました。さらに、沖合漁業の拡大に伴い、漁場や避難港の調整が課題となり、新たな秩序づくりが求められました。

明治初期まで松村家の屋号は「ヤマボシ」だった。焼津では当時から社名とは別に屋号を用いるのが一般的で、今も市内に約400近くの屋号があるという。
1870
魚商人と仲買仲間の中に、5代目 長五郎の名あり
江戸後期に“土佐切”の技術を焼津に広めた長五郎は、明治になってからも意欲的に加工技術を高め、自社製品に磨きをかけて全国の品評会に次々と出品を続けた。記録によると明治26年の水産品評会入賞を皮切りに、大正6年までに全国各地での品評会や博覧会で計14回の入賞を果たした。「今よりもっといいものを作ろう、他の誰にも負けないものを作ろう」と、長五郎が生涯を通してカツオ節に懸けた情熱の一端を示す記録である。
1884
魚の取引に近代的な手法を導入
魚商人をまとめて魚商人の団体を設立
取引口銭の歩率、魚商の魚買い入れ代金不払いにおける弁償法取り決め

漁船動力化と東海道線開通
東海道鉄道が全線開通し、焼津では駅と港の近さを活かして水産物の出荷が効率化され、販路拡大につながりました。
【明治二二年】1889
委託販売業水産商社の開業式を六代目長兵衛の家で行い、松村方と他一か所で営業開始する
焼津初の水産会社設立、焼津の漁業を飛躍的に発展
カツオ節製造技術の向上
明治時代、博覧会の開催が水産加工技術の向上を促し、焼津もカツオ節などを出品して高評価を得るようになりました。明治21年には製造販売組合が設立され、技術改良に取り組んだ結果、全国各地からカツオ節製造指導の要請が相次ぎ、焼津の技術は全国に広まりました。

1893
カツオ節加工業が飛躍
長五郎が「土佐きり」の技術を焼津に広めた
水産品評会にてカツオ節が出品入賞
1900
七代目定吉 ミツボシ焼津水産㈾の監査役に就任
1906
〇三焼津水産㈾の発起人のなかに六代目長兵衛の名が残る
1908
台北物産共進会にてカツオ節記念章受章
1912
七代目定吉 焼津水産会の常置議員に当選
荷質金融会社を設立
1913年、焼津銀行主導で焼津倉庫株式会社が設立され、全国初のカツオ節を担保とする融資が始まりました。動力船の普及と製造技術の発展により、焼津はカツオ節の一大集散地となり、商業的側面が強まり、他産地との取引も活発化しました。しかし、1922年の暴落と関東大震災により、大きな打撃を受けました。
明治25年、松村家近くの料亭の三男として生まれた友吉は、幼い頃から商売に強い関心を持ち、9〜10歳の頃には学校帰りに高級魚を天秤棒で売り歩いた。高等科1年で「商売が好きだ」と学校を辞め、商人の道へ。中通り周辺を1日5〜7回往復し、鮮度のよい魚を効率よく売ることで顧客の信頼を勝ち取った。「お客さんが待っていてくれるようになった」と後年語るほどの手応えを掴み、自ら稼ぐ喜びを体得した。その商才と熱意が認められ、大正2年、20歳で松村家に養子入りし、後の八代目当主への道を歩み始めた。
【大正十二年】1923
関東大震災直後にカツオ節販売の商機を掴む
関東大震災の際、現岩手県宮古市でカツオ節を買い付けていた八代目友吉は、「焼津全滅」との噂に契約を解消し帰郷するが、焼津に被害はなかった。状況を見極めた友吉はすぐ宮古に戻り、再び荒節を大量に契約し直して需要増に備え、利益を得た。
1935
九代目 錠一、戦前からいち早くアメリカ向けの冷凍カツオを輸出
南洋進出
昭和初期、不況によりカツオ漁の単価が下落し、漁船の大型化や南洋への進出が試みられました。南興水産はパラオやトラック諸島でカツオ漁・製造を行い、1937年には皇道産業焼津営団がフィリピンや北ボルネオでの生産を開始。しかし、戦局の悪化により両社とも本来の事業を中止し、軍の任務に従事し、多くの犠牲者を出しました。

1942
九代目 錠一が有限会社皇道産業焼津践団に入社
昭和13年に徴兵された錠一は南方戦線から一時帰還後、皇道産業焼津践団で物資調達に尽力。戦況悪化により再召集され、高射砲中隊長として終戦を陸軍中尉の階級で迎えた。

戦後の復興
戦前、焼津には46~47隻のカツオマグロ船がありましたが、終戦時には18隻まで減少しました。しかし、1946年には木造船9隻、鋼鉄船4隻が加わり、1949~1950年には戦前の規模に回復しました。また、一時中断していた焼津漁港の整備も進められました。
【昭和二三年】1948
株式会社松村友吉商店を設立
終戦直後、友吉は廻船魚問屋業の再開に真っ先に着手した。少年時代から商才に優れ、戦前から漁船管理に尽力していた彼の先見性がここでも発揮された。

鰹節組合の再出発
戦時中に統制下にあったカツオおよびカツオ節は、終戦後の1946年に焼津鰹節商工組合が設立されました。1949年には水産協同組合法の制定により、焼津鰹節水産加工業協同組合に改組され、初代組合長には友吉が就任しました。事務所はカツオ節倉庫の一棟を使用し、組合員は134名に達しました。1948年にはカツオ節の統制が撤廃され、地域の水産業の再建が進展しました。
焼津港開港による県外船の急増を機に、錠一はいち早く燃料供給のニーズを察知。軍隊時代の戦友の仲介でシェル石油の重役と親交を深め、昭和24年に特約店契約を締結した。その際、重役から「これからは海だけでなく陸を見て商売するといい」と助言を受け、この言葉が錠一の多角化経営の原点となった。昭和30年代にはシェル石油から高額なタンクローリー導入の話が舞い込むと、「社員の仕事が楽になるならいい」と即決。昭和34年に中港で開業したガソリンスタンドと、港周辺を走るタンクローリーはいずれも焼津初で、人々の注目を集めた。
【昭和二四年】1949
シェル石油特約店となり石油類販売を開始、駿河丸(タンク船)購入 。
焼津港の開港に伴う県外船の増加を受け、「いちまる」は燃料販売を新事業として開始。錠一は戦友の縁でシェル石油と特約契約を結び、多角化経営の第一歩を踏み出した。

素掘りの港に大型鋼船が初の入港
鮮魚介統制撤廃
1950年には鮮魚の統制が全廃され、焼津港の水揚げ量が回復しました。これにより、本格的なカツオ節生産の再開に向けた体制が整いました。また、地元船以外のマグロ類の水揚げ高が急増し、焼津港は全国のカツオマグロ船の水揚げ港となりました。
【昭和二八年】1950
カツオ節製造を委託に回し、自社製造をやめ、廻船問屋業再開、全国カツオ、マグロ漁船水揚げ取り扱いを開始
1951
焼津市誕生とともに焼津港を竣工。友吉も町ぐるみの築港運動の先頭に立ち、陳情のために、町長や漁師たちと一緒に何度も国や県に足を運んだ。
1952
港事務所開設
1953
いち早く缶詰製造工程を自動化。最初の工場は1953年に、カツオ節加工工場を改修して作られた。1961年、浜当目に缶詰を製造する新工場が完成。機械を導入したのは焼津ではいちまるが最初。焼津でトップクラスの缶詰製造会社になる。
焼津、マグロ水揚げ日本一へ
戦後、焼津港には多くのマグロ漁船が寄港するようになり、1940年代後半からはインド洋や太平洋全域への出漁が始まりました。設備の整った焼津港はマグロの水揚げ港として急成長し、1956年にはマグロの水揚げ高が日本一となり、高度経済成長期における焼津の発展を大きく後押ししました。
【昭和三一年】1955
漁業経営開始、松友漁業株式会社設立
栄吉丸を購入し第一松友丸カツオマグロ漁船(150t)とする
漁業部門を持ったのは昭和30年代に入ってからで、それまでには松村家所有の船の遭難や第五福竜丸事件などの影響で船を持つことが避けられていた。しかし焼津港の発展と漁業の利益増大を背景に、錠一が漁船購入の話を持ちかけ、熟考の末、友吉がついに決断した。

三男の聡(九代目 錠一の弟)、新規事業として焼津のスーパーマーケットの先駆けである、スーパーマーケット事業を提案。
冷凍技術の進化
焼津港の水揚げ増加には、冷凍技術の発展が不可欠でした。大量の魚を長期間保存できなければ利益を上げることは難しく、鮮度保持は漁業における重要な課題とされていました。高度経済成長期には冷凍魚介類の需要が高まり、家庭用冷蔵庫の普及や冷凍食品の一般化が、冷凍技術の進化をさらに後押ししました。
1956
貿易部門新設、冷凍魚の輸出を開始
1957
第一遠洋丸を購入し第二松友丸マグロ漁船(360t)として漁業開始
1958
社員住宅10棟を新築
1959
ガソリンスタンド焼津給油所開店
第三松友丸マグロ漁船(409t)建造
九代目錠一焼津水産会初代会長に就任

焼津魚市場、水揚げ100億円を突破
昭和30年代は高度経済成長期にあたり、冷凍・冷蔵技術の発達や漁船の大型化が進みました。戦後の復興によって消費も拡大し、全国的に水産物の需要が高まる中、焼津港ではカツオ・マグロを中心とした遠洋漁業が活況を呈しました。さらに水産加工業の発展も相まって、水揚げ量とその金額は急増し、1960年には初めて100億円を突破しました。
【昭和三六年】1960
松友漁業(株)の松友丸を売却
タンク船駿河丸を第十一昭和丸に買い替え、第二いち丸と改称
港事業所を本社とし、会社所在地を現住所に移転

1961
第五松友丸マグロ漁船(410t)建造
焼津市浜当目缶詰工場完成、缶詰部移転

港の活況が、街を盛り上げた
江戸時代後期から海沿いに集まっていた焼津の商いの中心地は、終戦後の住宅の増加を受けて1958年に一本内陸側に昭和通りが整備され、翌1959年にはアーケードも完成しました。神武通りやゴールデン街とつながるこの一帯は、1970年代まで志太地区でも指折りのにぎわいを見せる通りとなりました。映画館や飲食店、土産物屋、宿屋などが並び、焼津港に寄港する県外の漁船の乗組員やその家族を中心に、多くの人々の暮らしや楽しみに応える形で、さまざまな店が繁盛しました。
晩年の友吉は新規事業を息子たちに任せ魚問屋業に専念していたが、スーパーマーケット開業には自ら意見を出した。「うちは魚問屋が原点だから、魚は特にいいものを出しなさい、みっともないものを出してはダメだ」が口癖で、魚へのこだわりは格別だった。ふらりと店の魚売場バックヤードに現れ、顔を知らない新入社員に「このお爺さんは誰?」と聞かれても意に介さず、自ら包丁を握って魚の切り方を指導することもあったという。幼い頃から魚一筋に生きた友吉は魚に絶対的な自信を持ち、その姿勢は社員の誇りにもつながっていた。
【昭和三七年】1962
(株)富士屋設立、スーパー富士屋1号店開店
昭和30年代半ば、「いちまる」は好調な缶詰や石油販売に続き、スーパーマーケット事業に乗り出した。アメリカ留学から戻った友吉の三男・聰が、アメリカのスーパーマーケットの仕組みを紹介し、日本にもその時代が来ると説得。錠一はすぐに関心を持ち、アメリカから資料を取り寄せ視察も実施。昭和37年、「スーパー富士屋」1号店が焼津で開店し、多くの主婦が自転車で来店するほど話題となった。

マグロ漁業の危機と冷凍技術
1960年頃からマグロ船の大型化や航海費の増加、労働力不足などにより、カツオマグロ漁業の経営は悪化しました。これを改善するため、漁船の機械化や省力化が進み、冷凍技術も向上。船上で凍結されたマグロ(船凍マグロ)の評価が高まり、冷凍のまま取引される流通形態が定着し、大口取引も拡大しました。
1963
焼津市浜当目に冷凍庫新設(1000t)
旧大井川町に養鰻場新設
スーパー富士屋藤枝店開店
1964
第八松友丸マグロ漁船(375t)建造(第二松友丸の代船)
養鰻池10枚完成

トラック輸送への転換
1889年の東海道鉄道の開通以降、水産物の輸送には鉄道が利用されてきましたが、道路の整備や国鉄のストライキの影響を受け、1960年代後半からはトラック輸送が増加しました。1965年頃には電気クーラー付き保冷車が登場し、その性能が高く評価されたことから、1966年には焼津から出荷される水産物の7割以上がトラック輸送に切り替えられていました。
【昭和四〇年】1965
(株)いちまるに社名改称
社名を「株式会社いちまる」に改め、老舗「松村友吉商店」の看板を下ろした。戦後の発展期には多くの新事業を展開し、廻船魚問屋から総合水産会社へと成長。時代の変化に応じて事業内容を柔軟に見直し、経営を実践してきた。
1966
第十五松友丸カツオ漁船(190t)建造
九代目錠一静岡県水産加工団体連合会会長に就任
1967
ガソリンスタンド藤枝南給油所開店
スーパー富士屋焼津西店開店
1968
松友漁業(株)を吸収合併
第三松友丸マグロ漁船(410t)建造(旧第三松友丸の代船)
タンク船第三いち丸(130t)建造(第二いち丸の代船)
1969
第十八松友丸マグロ漁船(404.8t)建造(第五松友丸代船)
1970
ガソリンスタンド焼津インター給油所を開店
スーパー富士屋静岡緑町店開店

1971
ガソリンスタンド境橋給油所開店
第二十五松友丸カツオ漁船(383.3t)建造

さかなセンターと水産加工団地
1970年の「公害国会」において水質汚濁防止法などが成立し、焼津でも水産加工場からの排水改善が求められるようになりました。また、1969年には東名高速道路が開通し、国鉄の貨物縮小の影響もあって、水産物の輸送はトラック中心へと移行しました。これにより物流拠点は焼津駅前から分散し、朝市の規模は縮小、水産加工場も加工団地への移転が進みました。加工団地では共同設備が整備され、作業の効率化が図られるとともに、住宅地での公害問題も解消されました。
1972
藤枝市上当間へ冷凍庫新設(5000t)
第一二十五松友丸カツオ漁船(434.8t)建造
スーパー富士屋静岡瀬名店、スーパー富士屋静岡中田店開店
1974
焼津市田尻北へ総合グランド建設
1975
冷凍庫部門を分離、(株)焼津冷凍を設立(6000t増設)
松友水産(株)設立(静清中央卸売市場魚類仲卸業)
(株)いちふじ青果設立(静清中央卸売市場仲卸業)
コスター富士屋榛原店開店
1978
第二十八松友丸マグロ漁船(388.8t)建造(第十八松友丸の代船)
スーパー富士屋焼津東名店開店
1979
ガソリンスタンド ニュー池田給油所開店
鰻加工場(蒲焼および白焼きライン)増設
1980
ヤイズ水産(株)(伊藤忠との合弁会社)設立
遠洋カツオ一本釣り漁船減船
遠洋カツオ一本釣りは、近海一本釣りや海外まき網との競争に直面し、1981年には漁船43隻が減船・転換を決定しました。それ以降は、中西部太平洋で操業する海外まき網漁が主力となりました。脂の少ない肉質がカツオ節業者に好まれたことから、焼津港はカツオ節原料の供給基地としての役割を一層強めていきました。
1981
第三十八松友丸海外まき網漁船(499.3t)建造
1983
保険代理店業務を開始
掛川営業所を開設(水産部)まぐろの水煮缶「ツナーダ」開発
スーパー富士屋藤枝五十海店開店
1985
九代目錠一 全国水産加工業協同組合連合会会長理事に就任
(株)焼津冷凍グリーンテック事業新設(水耕栽培事業)
1986
液化石油ガス販売業務を開始
小川外港完成
焼津市の小川外港が完成し、漁港機能の拡充が図られました。これにより、漁船の受け入れ体制が強化され、水揚げ量の増加や漁業関連産業の活性化が期待されました。
【昭和六二年】1987
(株)いちまる本社社屋新設

1988
(株)住まいの富士屋設立(住宅関連リフォーム業)
1989
第八十八松友丸マグロ漁船(409t)建造(第二十八松友丸代船)
減船政策がもたらした
焼津漁業の転換点
1989年、国の国際漁業再編対策により、漁船の過剰供給を是正する目的で、カツオ・マグロ漁業を中心に漁船の隻数削減(減船)が進められました。これにより、焼津では遠洋漁業の経営効率化が促進され、老朽化した船の淘汰や大型化・省力化への転換が加速しました。漁獲競争の緩和や価格の安定にも寄与しましたが、一方で漁業者や造船業者への影響もあり、地元経済には一定の打撃がありました。この政策は、漁獲圧の抑制と資源管理の流れが本格化するきっかけにもなりました。
1981年に10代目の友吉が入社し、昭和から平成に変わるころ新たな経営戦略(海に頼らない事業開拓)に挑むN1(NEWいちまる)プロジェクトが始動。新規事業のひとつとして、下請け中心の食品製造ではなく、やるからには自社ブランドを確立したいという友吉の想いから、業務用真空調理食品ブランド「ブラ・ド・シェフ」が誕生。真空調理を時代に先駆けて食品工場に導入することになる。
【平成二年】1990
ブラ・ド・シェフ食品工場建設(真空調理食品)
いちまるのオリジナルブランド「ブラ・ド・シェフ」は、「シェフの片腕」をキャッチフレーズにした業務用の真空調理食品シリーズ。登録商標「真空調理法・スービット®」を活用し、素材・ソース・煮込み・オードブルなど約100種を展開。全国のホテルやリゾートの厨房で重宝されている。

1991
ブラ・ド・シェフ食品工場竣工式
東京支店(食品事業)開設
第十八松友丸海外まき網漁船(349t)建造(第三十八松友丸の代船)
1993
焼津市田尻北にコイン洗車場開店
1994
北陸営業所開設(食品事業)
1995
焼津市宗高にコイン洗車場開店
1996
焼津市田尻北に焼津フットサル倶楽部オープン
当初マグロ1匹分の利益も出せなかった「ブラ・ド・シェフ」の事業が、平成10年を過ぎる頃には安定した売り上げを得られる事業へと成長した。江戸時代後期のカツオ節加工の時代から、素材や加工方法、形は変われども、確かな品質とおいしさを創造する『いちまる』の姿勢は常に変わることなく未来へと続いていく。
【平成十二年】2000
関西支店開設(食品事業)
十代目松村友吉が社長就任
スーパー富士屋田尻北店開店

焼津の水産業の可能性
2001年、焼津では新港地区に新たな魚市場が完成し、流通機能が強化されました。また、第21回全国豊かな海づくり大会が天皇・皇后両陛下をお迎えして新港地区で開催され、地域の漁業振興と海洋環境保全への意識が高まりました。
2004
焼津フットサル倶楽部コートを4面に増床
2005
ブラ・ド・シェフ食品工場ミニHACCP取得
2007
パスタ工場ミニHACCP取得
2008
焼津フットサル倶楽部コート全面改修
【平成二一年】2009
セントラルタウン宗高分譲開始
新エネルギー部発足(太陽光発電・LED 事業)
焼津みなとマラソン特別協賛会社となる
2010
(株)住まいの富士屋と掬ちまる新エネルギー部・ソーラー部門が統合、卸いちまるホーミング設立
2011
エコアクション21認証
2012
東京営業所開設(食品事業) /富士山クリーンプロジェクト協賛企業、藤枝MYFCオフィシャルパートナーとなる
2013
スポーツヴィラ施設内にサッカー場を新設/こめペーストプロジェクト「米を原料とする食材を用いた加工食品並びにその製造法」特許第5428003号登録
臨港道路20号供用開始
焼津市で「臨港道路20号」が全線開通しました。この道路は、焼津市新屋から小川までを結ぶ全長約1.8kmの2車線道路です。この開通により、漁港からの水産物輸送が効率化され、物流の円滑化が図られました。また、周辺道路の渋滞緩和や交通安全の向上にも寄与しています。さらに、臨港道路20号は焼津みなとマラソンのコースの一部としても利用されており、地域のイベントにも貢献しています。
2014
ふじのくになでしこ企業loo宣言登録
2015
大阪営業所開設(食品事業)
第十八松友丸海外まき網漁船(760t)竣工
(一社)海外まき網漁業協会 海外まき網漁業地域プロジェクト協議会「もうかる漁業創設支援事業」認証
自社ブラント「CANTIPAST(缶ティパスト)」発売
(株)日本食糧新聞社主催第1回介護食品(スマイルケア食)コンクール「弱い力で噛める食品部門」審査委員長賞受賞ブラ・ド・シェフブランド商品(バイキング用豚ばら角煮)
こめペーストプロジェクト「発芽種子ペーストの製造方法並びにその装置」特許第589908号登録

2016
こめペーストプロジェクト「米ペースト製造方法並びにその装置」特許第6132516号登録
ふじのくに新商品セレクション金賞受賞「CANTIPASTo(缶ティパスト)」
焼津の水産業と
地域活性化の取り組み
近年、魚の不漁や自然保護の重要性が高まる中、漁業者は効率的な漁法や生産調整に取り組んでいます。焼津では「焼津水産ブランド」の認定や港を活用したイベント、学校給食での地元食材の活用など、地域全体で水産業を生かしたまちづくり・人づくりが進められています。
創業150年にあたり、事業の方向性として「本業回帰」を掲げる。これから将来に向けて、戦前の家業の時代に培った水産業と食品加工業のDNAを更に進化させて、より深い、よりお客様に喜ばれる製品やサービスの創造に邁進していく。その先駆けとして、『一般消費者向け』の新規事業を開始する。
【平成三十年】2018
創業150周年/150周年記念ツナ缶「焼津の網元」発売
海と日本プロジェクト推進パートナーとなる
ふじのくに新商品セレクション金賞受賞「焼津の網元(ツナ缶)」

2019
松村代表が「水産功績者表彰」受賞
2020
株式会社いちまるスティムレート設立
【令和三年】2021
ブラ・ド・シェフ食品工場が食品衛生優良施設「厚生労働大臣表彰」受賞

2023
問屋部にて「MEL認証」の流通加工段階(CoC)認証を取得
2024
ふじのくに新商品セレクション2024 金賞受賞「焼津式かつおのたたき 鬼わら焼き®」

【令和七年】2025
「かつお船漁師の賄い 漬け丼の具」が『にっぽんの宝物グランプリ』の全国大会で2024-2025 調理・加工部門にて準グランプリを受賞
ふじのくに新商品セレクション2025 最高金賞受賞「かつお船漁師の賄い 漬け丼の具」
